通気断熱WB工法について

「呼吸する家」通気断熱WB工法|逆瀬川はうじんぐ

健康が蝕まれていては・・・

透過のチカラをご存じですか?

家の中で自然に空気が流れるの?

安らぎはどこからくるの?


第1話 何かが間違っている
WB工法の生みの親であり、(株)ウッドビルドの社長でもある寺島今朝成。寺島はもともと大工の出身だ。なぜ、現場の大工がWB工法を開発することになったのか……。そこには、現場に携わってきたからこそわかる、本質的な問題があった。
高気密高断熱住宅が全盛期だった平成9年のことだ。
寺島はその頃、棟梁として住宅づくりの最先端にいた。この道30年、棟梁としてちょうど脂が乗りきってきた頃だった。戦後に日本中を席巻したハウスメーカーの家が、そろそろ建て替えの時期を迎え、お施主さんから増改築の依頼が舞い込むようになっていた。
ある日のこと、寺島はお施主さんの家の壁の中をみた。築15年、有名なプレハブメーカーの家だった。
「ううっ…これは!」
少しだけ取り壊して開いた壁を見たとたん、寺島は言葉を失った。
壁の中に水がたまって、内側から蒸れ、明らかに木が腐り始めていたのだ。
「ひどい…!」
長年、家をつくってきて、日本の家づくりの最大の長所は「木を活かして建てる」ことだと感じていた寺島は、「何かが間違っている」と直感した。
それ以来、どんなに「これからの時代は高気密高断熱が主流だよ」と同僚やお施主さんに言われても、頑として高気密高断熱の家づくりを否定してきた。
「なんでそんなに頑固なんだ」「どうして時代を見ようとしないんだ」
そう言われても、寺島はどうしても高気密高断熱の家はつくりたくなかった。合板やビニールのような科学素材で覆った家が、どうしても窒息しているように見えた。そんな家に暮らしていかなければならないお施主さんが、かわいそうだ。
この思いを打ち消すことはできなかった。

第2話 在来工法の家はなぜ寒い!
高気密高断熱工法に家づくりを頑として受け入れなかった寺島。ある日、お施主さんからこんな質問を受けた。
「だったら寺島さん、あなたのところではどんな工法で建ててくれるんだい」
「在来工法ですよ」
「昔の家か……。そりゃあ寒くてダメだ」
昔の家が寒いのは、建具が悪かったり、隙間だらけだったりしたせいだ。自分が建てる家は隙間なんてない。建具だって最先端のサッシだ。寒いはずがない。
そう思ってはみたものの、高気密高断熱の家に比べると、在来工法の家はやっぱり寒い。どうしてだ。
生まれながらに、とことん原因を突き詰めないではいられない性格の寺島は実験してみることにした。実験のため、八畳一間の小さな家を建て、データを実測することにしたのだ。
テーマは2つ。なぜ寒いのか。そして、なぜ結露がおきるのか。
完成した小さな実験棟の17カ所に温度計と湿度計を取り付け、結露の原因を探るため水に浸したバスタオルを干した。午後9時に暖房のスイッチを入れ、30分おきに午後3時までデータを取る。これを毎晩毎晩続けた。
一大工のプライドが、一人の男を科学者に変えてしまった。人から見たらバカみたいな、でも大学の研究室のような、ひたすら計測の日々が始まった。

第3話 壁の向こうに吹いていた風
工場の庭に造った実験棟で毎晩30分ごとにデータを取り始めてしばらくたったころ、決定的な原因もわからないまま、寺島は途方にくれていた。
「やっぱり在来構法は高気密高断熱の住宅に比べると寒い。その理由がわからなければ、解決のしようがないじゃないか。もうこれ以上やりようがないな」
半ばあきらめかけた寺島は、ふとタバコに火を付けた。何気なくタバコをふかしながら、壁の測定窓を開け、温度計のリセットボタンを押していたとき、あることが気になった。吸っていたタバコの煙がスーッと測定窓に吸い込まれ、壁の中を上がっていったのだ。
「おや?こんなところに気流があるのか……?」
今度は反対側の壁に取り付けた測定窓を開き、タバコの煙を近づけてみた。
すると、同じように煙は吸い込まれていったが、今度は下に流れていった。
「なるほど、そういうことだったのか!」
家は外壁に包まれた気密空間だが、壁・天井・床などでもう一つ内側に壁をつくっている。二重構造になっているのだ。高気密住宅は外壁と内壁の間に断熱材を入れ、空気が動かないように閉じこめている。
しかし、在来構法の場合、断熱材を入れてはいるが、空気を止めてはいない。木材が蒸れて腐るのを防ぐためだ。寒さの原因はこれだったのだ。
実験の結果、暖房で部屋を暖めると、壁の中の空間に上昇気流が発生することがわかった。暖かい空気が床下から寒気を呼び込み、断熱材の内側を通って小屋裏の換気窓から逃げていたのだ。
「これでは寒いに決まってる」
寺島は、夜更けの実験棟で、もやもやしていた頭の霧がサーッと晴れていくような気分になっていた。

第4話 赤ちゃんからお年寄りまで健康に暮らせる家をつくりたい
暖かい部屋の壁際で上昇気流が起きているのに対して、壁の向こう側では冷たい空気が下に下がる“コールドドラフト現象”が起きている。つまり、床下の冷たい空気が、グルグルと壁の中を循環しながら、家全体を冷却するように動いていたことになる。蒸れ・腐れを防ぐために、壁と壁の間の空気を止めなかったことが、寒さの原因だったのだ。
外気温が0度のとき、床下の温度は通気を止めていても8度ぐらい。その冷たい空気が壁一枚隔てたところを流れていたのでは、寒いはずだ。
夏の暑さと湿気対策に適した在来構法の家の弱点は、冬の寒さ。これさえ解決できれば自分が理想とする家づくりができるはずだ。寺島の課題が明確になってきた。
タバコの煙から偶然発見した空気の流れ。冷えた空気が壁に流れているから寒いのだから、冬は壁の中の空気を動かないようにする必要がある。
寺島の頭なかで、何かが動き始めた。
WB工法につながるアイデアの素が生まれた瞬間だった。
家づくり一筋にやってきて、「何かがおかしい」と感じたのは、大工として、棟梁としてだけでなく、人間としての直観であったかもしれない。
「まず、なによりも赤ちゃんからお年寄りまでが健康に暮らせ、家が蒸れたり腐ったりせずに長持ちする、みんなを幸せにできる家をつくりたい」
棟梁・寺島のガッツがめらめらと燃え始めた。

第5話 不可能を可能にする形状記憶合金
手探りによる実験で、在来工法の家の「冬寒い」という欠点の原因が、壁の中を空気が流れていることだということを突き止めることができた。しかし、壁の中の空気を強制的に止めてしまう高気密高断熱住宅は確かに暖かいけれど、日本のように湿気の多い風土では、どうしても蒸れ・腐れが生じてしまう。
「それならば、在来工法をベースにして、春から秋までは壁の中の通気を自由にし、冬だけ通気を止めればいいじゃないか。私たちが暮らしの中で衣服を衣替えするように、家だって夏と冬で衣替えすればいいんだ!」
どうやら問題の答えらしきものが、おぼろげにつかめてきた。問題は方法だ。
家に数十カ所もある通気口をどうやってコントロールすればいいのか……。一番簡単なのは寒くなったら手で閉め、暖かくなったら開くことだ。しかし、家の形もそれぞれだし、外気温の変化に合わせて通気窓を開けたり閉めたりすることなど、到底不可能だ。かといって電動にすればコストがかかるし、メンテナンスも面倒だ。
そんなとき、ふと思い出したのが、まだ大工になる前の若かりし頃、精密工作機械の工場で働いていたときのことだった。
寺島は、若い頃からものづくりやメカが好きで、機械製造の仕事も得意だった。生まれながらの技術者系なのかもしれない。今でも、4トントラックの実験室づくりや、デモンストレーション用の模型など、まずは自分でつくってしまうほどだ。
「そうだ! たしか形状記憶合金というものがあったはずだ。温度で形が変わる素材だったな。あれが使えるかもしれない」
寺島はさっそく工業試験場に行き、形状記憶合金を扱っているメーカーを調べ始めた。それがどうつながっていくのか見当もつかないが、頭の中で何かがつながりそうな、もう少しで形になりそうな予感がしていた。
寺島は、夜更けの実験棟で、もやもやしていた頭の霧がサーッと晴れていくような気分になっていた。

第6話 高気密高断熱工法が日本の家をダメにする
形状記憶合金は、ある一定の温度になると形が変わり、また温度が変化すると元に戻る性質をもっている。形状変化のエネルギーは温度のみだから無駄な電気も使わない。
この形状記憶合金を通気口の開閉に利用できれば、寒くなったら窓が閉まり、暖かくなったら窓が開く仕組みができる。これが実現したら、高気密高断熱のブームに押されて衰退しかけていた在来工法の進化形として、画期的な工法になるにちがいない。
寺島には確信があった。
それとともに、実験をくりかえすなかで、寺島はもう一つの重大なことにも気づいていった。快適を売りにして飛躍的に売上げをのばしていく高気密高断熱住宅は、家を窒息させ、殺している。家が悲鳴を上げているように見えた。
そんなハウスメーカーの家づくりを国を挙げて推奨している日本……。千年以上もの歴史をもつ日本の木造建築が、これで台無しになってしまう。住宅業界は、大きな間違いを犯している。
壁の中の通気は一年中止めてはいけない。特に暑く湿気の高い季節は積極的に通気することが必要で、このことによって湿度が調節され、構造材の蒸れ・腐れを防ぐことができる。これが日本の気候には欠かせない住宅づくりの基本だ。
冬の寒さは通気を止めればいい。通気口に形状記憶合金を使えば、一定の気温になったら自動的に扉が閉まり、通気が止まる。壁にもビニールを貼らずに、湿度を通す土壁のような素材を使い、呼吸する家にすれば、家も長持ちするし、四季を通して快適に住まうことができる。
在来工法の進化形……それが、もうちょっとで形になりそうだった。
「早くしないと日本の住宅はダメになる」
寺島の夢は、大工としての使命感が支えていた。

第7話 なんとなく特許取得
平成10年、寺島は自宅を新築した。これまで8畳一間で実験してきたことを、丸ごと一軒の家で実証するためだ。つまりは「身銭を切った実験棟」である。
自分が考えた通気口の開閉システム、屋根の下には断熱層と通気層。実験の結果に基づいて考案したさまざまなものが家に導入された。そして、各部屋、廊下、天井、壁の温度や窓の結露状態などを計測した結果、実験棟と同じ結果が得られたのである。
「やった!これなら自信を持って広げることができるぞ」
実験の結果にとても満足していた寺島に、一人の友人が思いもかけないことを言った。
「それを発明したのは私だ、と他の人が主張したらどうするつもりだ」
「え~? 面倒なこと言うなよ」
「お前、特許申請を出しといたほうがいいぞ」
特許……。そんなこと考えたこともなかった。一人の大工が昔からの家づくりにこだわり、自分の五感を頼りに「在来工法を住みよくするにはどうしたらいいのか」を追い求めただけのことであって、特許なんてとんでもない。
その時はたいした意味もなく、とりあえず自分が発見したことについて特許出願だけでも出しておくか、という気持ちで実験結果をまとめて特許庁に提出。そのまま忘れていたところ、ある日「特許拒絶」の通知が2通も届いたのだった。
1か月近くそのまま放っておいたが、ふと思いついて書類を見ると、拒絶理由の参考文献が20冊。すべて専門用語だった。
「参ったなあ。私は職人であって研究者じゃないんだぞ」
そう思ったものの元来の負けず嫌いと、なんでも一人でやってきた自信が寺島の背中を押した。何回も拒絶理由として添付された文献を読み直し、自分が提出した内容の文献と見比べていくと、拒絶の根拠として挙げられている文献のほうの間違いが明らかになった。
寺島は、その違いをひとつ一つ書き出し、期限切れ寸前に特許事務所にかけこんだ。
中間提出してから3か月後、寺島の元に特許査定通知が立て続けに届いた。

第8話 立ちはだかる壁・壁・壁……
特許がとれた新工法は、「通気断熱WB工法」と名付けました。
コツコツと実験を重ね、開発までこぎつけたWB工法は、実際に寺島が住んでみて快適さは実証済みだ。昔ながらの家づくりの結露を大幅に解消し、冬も断熱性能が良く、夏も焼けこみを逃がし省エネルギーにもなる。
最初のうちは、一大工の意地から、高気密高断熱を信じるお施主様への説得材料になれば、と思って始めたことだったが、実験を通してさまざまな日本の住宅界の間違いに気づいていく中で、「日本の家づくりを救えるのはこの工法しかない」と確信するようになっていった。
「WB工法を全国のいろんな工務店に採用してもらうことで、日本中の住宅の病気を治したい」そんな気持ちが高まっていった。
全国に広めるには、まず製品化し、それを量産できる体制にまでしなければならない。それには資金的な問題、法律の問題、と乗り越えねばならない大きな壁が立ちはだかっていたのだった。
WB工法を支えているのは、形状記憶合金を使った9つの部品と、後にヨドマーズと名付けた対流装置。自社での製品化を決める前に、なんとか協賛・共同開発してくれる企業はないかと寺島は全国を駆け回った。材料メーカー、電機メーカー、商社、地元の有力企業など。しかし、田舎の一大工の言うことをまともに聞いて味方になってくれる企業などひとつもなかった。
自社で開発から製品化までをやるとなると莫大な資金が必要になる。ここまでやって、やっと実現しかけたのに……。己の無力さに唇をかみしめる寺島だった。
そんなとき、ある銀行の支店長が新任の挨拶にやってきた。寺島は自分がこれまでやってきた実験のこと、特許出願のこと、そして日本の住宅業界をまともにしたいんだ、という思いをぶつけた。
「寺島さん、すばらしいじゃないですか。よく頑張ってきましたね。協力しましょう!」
八方塞がりのなかで小さな光が見えた気がした。
「よし、自社でがんばってみよう!」
寺島は、人に頼らず自力でやると腹を決めた。
「技術がよければ、たとえ自分が挫折しても、きっと誰かがつないでくれるにちがいない」そんな気持ちが寺島の背中を押していた。

第9話 公的融資を最大限に活用し、製品開発へ
新しく来た銀行支店長の励ましで、寺島は自分の会社で開発することを決意し、まずは資金の手当てから着手することにした。
「創造活動促進法」を利用すると、最高2000万円までの助成が可能なこと、「経営革新法」では担保の2倍までの融資が受けられることなどを教えてもらい、最大限の公的融資を申請した。どれもすぐれた技術が条件だ。
「ここまでの融資は前例がありませんね」と担当者からは冷ややかな対応をされたものの、なんとか資金調達の目処がたった。
「よし、あとは製品開発。前進あるのみだ!」
まず、百枚を超える図面を基に、中小企業支援センターの協力を得ながら加工工場に金型製作と加工を依頼した。
「どんな試作品ができてくるだろう」と楽しみに待っていたが、いくら待っても形にはなってこない。
「いったいどうなっているんですか。いつになったらやってもらえるんですか」問い合わせにも焦りが入る。
ベンチャー企業の製品開発は、先の見通しがつかないため、なかなか動いてはもらえない。せっかく資金の目処がたったのに、なんの成果もあげられないまま過ぎていく時間が歯がゆかった。
「人が動かないなら自分が動くしかない!」
思いあまった寺島は、30年前の同僚を頼って愛知県に飛んだ。そこでプレス加工金型の26種類を依頼することにした。プラスチックの成型17種は、地元で金型を造ってもらうことにした。
ようやく製品づくりに向かって具体的な動きが始まった。
平成10年5月のことだった。

第10話 対流扇ヨドマーズづくりを求めて台湾へ
WB工法の家づくりには、さまざまな発明が盛り込まれている。対流扇ヨドマーズもそのひとつだ。室内の空気を対流させるのだが、よくあるシーリングファンは風が起きるし、音もうるさいのが欠点だ。
ヨドマーズは、風を起こすのではなく、気圧の高低によって空気を対流させるものなので、風が起きないうえに、音も静かというメリットがある。そのうえ省エネというおまけつきだ。
この構造を思いついたとき、寺島は「これは売れる!」と確信し、ある電気メーカーの開発部長に共同開発の相談を持ち込んだ。
ところが、製品の素晴らしさは認めるものの、新製品は消費者に認知されるまでが大変ということで、こちらが望む答えはもらえなかった。
「こうなったら自社で造るしかない」ここでも寺島の負けん気が出た。
1つの製品を部品ごとに形や製造方法を考えて発注、ほぼこれだけ揃えばできるだろうという見通しが立ってきたが、たったひとつ造れないものがあった。モーターである。メーカーに供給依頼をしても「部品販売はいたしません」という応え。行き詰まった寺島はファンを30台購入し、そのすべてからモーターを取り出してみた。そこまでやった結果は、産業廃棄物の山をこしらえただけだった。
しかし、そこであきらめる寺島ではない。
モーターをさらに分解し、製造刻印を見ていくと、ベアリングにかすかな刻印を発見した。そこには「TAIWAN」の文字が刻まれていたのだ。
さっそく台湾のファンモーターを造っている会社を探し、一路、台湾へと向かった。
台湾は、一昔前の日本のように「ものづくり」に情熱を傾ける町工場がひしめく町だった。突然日本から訪ねていった寺島に、台湾の工場はいろいろな製造現場を見せてくれた。
「モーターだけでも売るけれど、全部をつくる技術もあります」
小さな工場で、必死に働く「ものづくり」の人たちの姿が、寺島には新鮮に映った。
「台湾でつくってみよう」
寺島はいつしか台湾の「ものづくり」にかけてみようという気持ちになっていた。

第11話 いざ全国展開へ!
細い糸をたどるようにして、一つずつ進めていった製品化への道。愛知・台湾・長野を何十回も往復し、あとは、すべてを自社で組み立てるのみ、というところまでこぎ着けた。
最後の加工と組み立てをするために、中古のプレス機を28台購入し、木材倉庫を片付けて据え付けた。
「そんなにたくさん機械を買って、どうするつもりなんだ」
どこの企業も設備投資を控えるなかで、周りから奇妙な目で見られながらも、平成11年1月、なんとか加工ラインが完成した。材料のアルミ、プラスチック、合金などが入荷し始め、3人体制での加工・組み立て作業が始まった。
平成11年3月、形状記憶合金の通気口、製品第一号がついに完成した。
このときすでに、実験開始から1年8ヶ月がたっていた。ここまでに費やした開発資金は3億2千万円。すでに会社の年商とほぼ同額の開発コストが費やされていた。厳しい資金繰り。ギリギリのなかで、ようやくこぎ着けた製品化だった。
「ここまできたら引くに引けない」
寺島の目の前にあるのは、WB工法を信じて進む一本道だけだった。
実は、製品化を進めるのと同時進行で、寺島は全国展開への準備を進めていた。
平成10年12月、信州大学と産学共同研究の契約を結んだ。WB工法で建てた住宅20棟を無作為に選び、温熱環境と空気環境について1年に亘る実測調査を始めた。
「このデータが全国展開するうえでは何よりの証拠になるにちがいない」寺島はそう考えていた。この実測調査でWB工法の性能の高さが証明されるのだが、一方で、日本の住宅業界の暗部を露呈する形で、寺島に大きな影響を与えることになっていく。
「通気断熱WB工法」のVC(ボランタリーチェーン)としての全国展開、お膝元の長野から始まった。大工さん工務店さんを招いての説明会は、1回目、2回目は30人ほどだったが3回目で120人となり、3ヶ月で37社が会員契約を結んでくれた。
そのときの寺島にあったのは「間違ってしまった日本の住宅建築を根本から正さなくては」という使命感と、「ここまで協力してくれた人たちに報いたい」という気持ちだった。

第12話 見えてきた住宅業界と国の甘い視点
全国展開するときWB工法の性能を伝える裏付けになれば、と思って始めた新築住宅の実測調査。それが思わぬ形で、施策の盲点をあばくことにつながっていった。
WB工法で建てた家は、温熱環境でも空気環境でも驚くべき数値を出していた。温熱環境としては国が推奨する高気密住宅をはるかに上回る温かさで、カナダ・北米の寒冷地と同じかそれ以上の温かさを証明。夏は東京での室内体感温度を1.4度も下回った。空気環境では、ホルムアルデヒドの量が高気密住宅とは比べものにならないほど低かった。
また湿度は、カップに水を入れて室内においておくと、高気密住宅では湿度95%にもなるのに対して、WB工法では半分以下の42%、結露実験でもWB工法では結露が現れないという結果になった。
この結果をNHKの「おはよう日本」という番組で「化学物質がこもらない家づくりに挑戦している大工棟梁たち」という特集で放映してもらう準備がすすめられていたとき、大学の研究室からストップがかかったのだ。
「高気密住宅は換気を基本としているから比較はできない」というのがその理由だった。
しかし、高気密高断熱の家の普及に伴って「シックハウス症候群」は深刻さを増していった。化学物質が家に高濃度でこもるための健康被害だ。
寺島は怒りに震えた。
「なぜ国は根本原因をつきとめて、このような健康被害が二度と起こらないような対策を講じないんだ。高気密高断熱住宅を推奨している国の責任だ!」
平成13年、国土交通省と厚生労働省はシックハウス症候群対策について、国民からの意見を募っていた。そこで、寺島は、それまでの実験結果をまとめたデータを送り、高気密住宅の危険性を訴えたのだ。寺島には確信があった。
しかし、国からは何の反応もないまま、「換気システムを取り付ければよい」というだけの解決策が発表された。
平成15年7月、国は24時間換気システムの義務化を決定した。

第13話 シックハウス対策に「24時間換気システムの義務化」!?
シックハウス症候群対策として国がとった施策、「24時間換気システムの義務化」。これはWB工法の開発者である寺島にとって、大きな疑問が残るものだった。すでに400社以上にまで増えていた全国の加盟工務店からは、「WB工法でも換気システムをつける必要があるのか」という声が、毎日のように届いた。
WB工法の家は24時間換気システムをつけなくても、室内の化学物質濃度は国の指針値をはるかに下回っている。換気システムなど全く不要なのだ。
24時間換気システムは、家の中にダクトを回すので、そこがほこりやダニ、カビの温床にもなり、ダクトを通してそれらが家中に撒き散らされる。24時間回しっぱなしではエネルギーも無駄遣いだ。なかにはファンの音がうるさくてスイッチを止めてしまう人も少なからずいて、そうなると、換気どころか、ただただカビやダニの温床をつくるだけで不健康極まりない。
そんなシステムを認めてしまったら、WB工法の良さがまるつぶれだ。
「これが国のやり方なのか…。」
大手ハウスメーカーと、大学の研究者、それに国の役人のかばい合いの構図が浮かぶ。
「こうやって、日本の家づくりをダメにしてきたんだ。許せない!」
寺島は断固として立ち向かっていこうと決めた。
頼りにしたのは、建築基準法施行令20条7。それは、「1年を通じてホルムアルデヒドが概ね0.08PPMであると国土交通大臣の認定を受けた居室は、使用材料の制限および換気設備設置は適用しない」という内容だった。
こちらには200棟以上の実測データや、大学との共同研究による研究データもある。この基準をクリアすることなど簡単だ。寺島には勝算があった。

第14話 全国から集まった5万4千名の署名
ところが、立ちはだかる法律の壁は、そんなに甘くはなかった。
寺島が最初に訪ねた窓口は、国土交通省住宅局建築指導課。一人の課長補佐が、窓口になって寺島の説明をきいてくれた。実はその時、「20条7」の項目に該当するものがどのようなものなのか、学者も指導課もまったく想定すらしていなかったらしく、初めての事例に、正直、どう対処して良いかわからないようだった。
しかし、根気よく私の解説と意見に耳を傾けてくれた課長補佐が、想定外だった事例に道を拓いてくれたのだ。
法律に当てはまるかどうかは、まず国が評価基準を作ることから始まる。それをもとに、評価機関が選定され、新技術に対してどのような調査をし、どのように評価をすればいいか、評価方法書が作成される。そこで初めて、認定を受けるための申請を出すことができるのだ。
建築指導課は、約4ヶ月で評価基準を作成。その後、評価機関が方法書を作成するのに、なんと1年もの時間が費やされた。
専門性の高い技術を評価するにはどうすればいいのか、評価機関も何をどうしていいのかとまどっていたようなのだが、のんびりとしたお役所仕事に寺島はいらだった。
1年間、何度も上京して評価機関に資料を提出し、全国の会員を中心に署名運動も広げた。「国を動かすためには、なんとしても自分たちの熱い思いをぶつけないと」。そんな想いでつながった全国の家づくりの仲間達が動き、なんと2ヶ月で5万4千人の陳情署名書が集まったのだ。この署名は、時にいらつき、時にはくじけそうになる寺島を力づけてくれた。
今でも、このときの署名は、寺島の宝物として大切に保管されている。ひとり一人の名前が書かれた紙の束、その厚さに触れると寺島の胸は熱くなるのだった。

第15話 国家と大企業と学者、大きな力に挑む
平成16年7月23日、「空気環境における20条7の性能評価機関」が大臣より認定され、いよいよ申請の運びまでこぎ着けた。
しかし、申請書式もなければ前例もないので、書式から自分で作成しなければならない。何度も何度も作り直し、ようやく提出できたのは暮れも押し迫った平成16年12月のことだった。
「大丈夫だろうか。無事に法律の壁をクリアできるだろうか」
寺島は、不安な気持ちのまま正月を迎えた。でも、後ろには5万4千人の署名を寄せてくれた仲間がついている。かれらのためにも、がんばりたい、という気持ちが寺島を支えていた。
平成17年1月7日、評価委員による第1回目の面談による正式評価が行われた。国から任命された学識者6名による評価である。
「国を代表する学者たちなのだから、理解は早いにちがいない」かすかな期待は、まんまと裏切られるかたちになった。
第1回目の内容は資料説明のみで、次回の審査が行われるのは3月というのだ。
「これが役所の仕事なんだな」
半分は諦めながらも、やはりいらだつ役所の対応。こうしている間にも、自分たち民間の建設会社は仕事をして生きていかねばならない。その厳しさを役所は何もわかっていない気がした。
それでも寺島は辛抱強く、審査会を繰り返しながら、なんとか次のステップまでこぎつけることができた。「性能評価書」の交付までかかった時間は、第1回目の審査から17ヶ月。民間人が、国や法律という見えない敵と戦っていくには、なによりもくじけない精神力が必要だ。
この運動を通して、寺島が学んだことは、国家と大企業、学者による大きな力が法律を作り、自らを守っているということだった。国民の健康や利益は二の次にされている。やり場のない怒りが寺島をより強くしていた。

第16話 長い道のりの果てに手にした大臣認定
そもそも24時間換気システムの義務化のきっかけとなったのは「シックハウス症候群」である。それは、国をあげて普及したプレハブ住宅が原因だ。それで国民に大きな健康被害が及んだ。それに対して国のとった対策は、24時間換気システムを義務化することだ。これでは、根本的な解決にはならず、付け焼き刃の対処をしようとしているにすぎない。
「20条の7」は、その住宅の弊害をなくし、換気設備を使わずに安全を保証するものである。その資料をこちらから提供し、それを公開しようとしている者の足を、国が引っ張っている。
私は大臣への陳情を行い、行政訴訟に踏み切ることまで決意して、非公開ながら通知まで出した。覚悟はできていた。
WB工法で建てた家は、ホルムアルデヒドの数値が極めて低いことが実証されている。これはゆるぎない事実である。家を建てたことがない学者たちが理論だけで作り上げた「24時間換気システム」は、実際に現場側から見れば、家中の空気が入れ替えることは無理で、一部の空気が入れ替わっているにすぎないことが明白なのだ。
しかし、国の立場とすれば、換気の義務化をして半年も経っていない時点で、それを覆すような法律は作れない。それだけのことだった。
審査が終盤にさしかかったころ、ようやく結論が出た。
「20条7の申請に対してすべてを認めることはできないが、化学物質が壁を透過することによって室内の機械換気が不要となることは認める」というものだ。
寺島が主張してきた「透湿透過」の「透過」だけを認めるということだった。
ここまでたどりつくまでに3年。けっして100%満足のいく結果ではなかったが、とりあえずの「大臣認定」までこぎつけた。
平成18年8月11日、待望の大臣認定証書が交付された。「WB工法で建てた家には24時間換気設備は不要である」と国が認めた証である。長く厳しい戦いの中、5万4千人の仲間とともに手にした価値ある国の認定だった。
 
 
「呼吸する家」通気断熱WB工法
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